- 鞠とぶりきの独楽 -

< 1924年(大正13年)6月18日編 >
** 憶 え 書 **
鞠とぶりきの独楽 及びそれよりうえにとじてあるのは、皆 今夜-(6月18日の夜)の作 なり。
これ等は童謡ではない。むねふるえる日の全をもてうたえる大人の詩である。
まことの童謡のせかいにすむものは こども か 神さまである。




真理のほかに
まだほかの真理がある
みないで
それをしんじうるものはさいわいである

いろいろな
世界があることはたしかだ
ひとつのもの 鉄でさえそうだ
くされた鉄があり
やくにたつかたい鉄があり
とけてぷるぷるふるえる
「鉄よりも鉄」の鉄がある

じごくがあり
てんごくがあり
にんげんの世もある
みえたりみえなかったりする

てくてくと
こどものほうへもどってゆこう

こどもがよくて
おとながわるいことは
まりをつけばよくわかる

あかんぼが
あん あん
あん あん
ないているのと

まりが
ぽく ぽく ぽくつかれているのと

火がもえてるのと
川がながれてるのと
木がはえてるのと
あんまりちがわないとおもうよ

ぽくぽぅひとりでついていた

わたしのまりを
ひょいと
あなたになげたくなるように
ひょいと
あなたがかえしてくれるように
そんなふうになんでもいったらなあ

ぽくぽく
ぽくぽく
まりを ついてると
にがい にがい いままでのことが
ぽくぽく
ぽくぽく
むすびめが ほぐされて
花がさいたようにみえてくる

かんしんしょうったって
なかなか
ゆう焼けのうつくしさは
わかりきらない
ぽく ぽく
ぽく ぽく
まりをついてるとよくわかる

まりを
ぽくぽくつくきもちで
ごはんを たべたい

ぽく ぽく
ぽく ぽく
まりつきをやるきもちで
あのひとたちにものをいいたい

まりと
あかんぼと
どっちもくりくりしてる
つかまえ どこも ないようだ
はじめも おわりも ないようだ
どっちも
ぷくぷく だ

ひいとおよ
ふうた
み いい
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ
まりをついてると
いったい
数というものが どうして できたか
なぜ 数というものは あったほうがいいんだか
そんなわけがらが
ほんのりと わかってくる

色は
なぜ
あるんだろうか
むかし
神さまわ
にこにこしながら色をおぬりなされた
児どもが
おもちゃの色をみるようなきもちで

川をかんがえると
きっと きもちがよくなる
みるより
かんがえたほうがいい
いまに
かんがえるように
みることができてこよう
そうなれば ありがたい

おもちゃに
むちゅうになってたら
なにも かも
おもちゃに みえてきたぞ
おかしいことには
なにも かも ちいさくみえて
おもちゃばっかり 巨きい

ひとりでんに
できたものといえば
おそらく
まりだろう

こまというものは
鞠の うえしたが とんがったんだ
まりの しんるいだ
すこし
かんじはするどい
やっぱり こまのほうが
神さまにちかいかな

いいもの
みつけた
あった あった
まりがあった

まりは
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ
わたしも ぽこ ぽこ
ぽこ ぽこ ぽこ ぽこ

まりに
あきたら
独楽と ゆこう
こまにあきたら
まりと ゆこう

だあれも
人のみてないところで
おもいきり人のためになることをしていれぬものか

きりすとを おもいたい
いっぽんの木のようにおもいたい
ながれのようにおもいたい

柿の花が
柿の木のまわりに落ちていた
ぱらぱらとちらばっていた
その日は
桃子にきつくほほずりしてねむりについた

いても
たってもいられない
はなしてもだめ
ひとりぽっちでもだめなにかに
あぐんとくわれてしまいそうだ

森へはいりこむと
いまさらながら
ものというものが
みいんな
そらをさし
そらをさしてるのにおどろいた

おおきな河のうえを
夜の汽車でとおる
むこうのほうにも
橋があるらしく
いちれつの灯がかわにうつって
ひとつびとつ
ながい ながいひかりにたっている

たかい たかいところからみていたい
おこるどころか
じぶんは
とろっとろと
熔けてしずかにふるえながら
なにもかも美しいみたいものだ

ひるひなか
ひろい庭のまんなかに
からからになって
しかもまるくつるつるした
いっぴきの蛙がひっくりかえってた

ゆうぐれ
まっ青なはらっぱで
狂人がすわりこんで
たばこをふかしていた
空気までまっさおなはらっぱだった

いいゆうやけだ
じっと みていると
かすかに
くもは うごいている
そらがうごいているようだ
空いちめんうすくれないとみどりだ

  ま り

なにがいいかって
やっぱり
鞠はいとのまりがいい
おおきくてかるいのがいい
ぽこぽこしていて
ぶっつからぬさきにはずむようなのがいい

 おもちゃ

おもちゃよ
おもちゃよ
たんとあれ